4連休の初日。
神戸に帰るという後輩の車に同乗させてもらい、実家である大阪へ戻ってきた。
その晩は父と母とコロナ以来3人で晩御飯を食べた。
いつも酒を飲んでいる父親なので、今日も変わらず飲むものと思い、先にお酒を飲んでいたのだが、父親はアルコールでなく水を飲んでいた。
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僕が生きてきた32年間、父親がアルコール無しでご飯を食べる姿を一度も見たことがない。
しかし6月に父親が倒れて以来、酒の量を現在一気に減らしたとのこと。
なんだか先にビールを開けている自分が申し訳なくなって、全く意味はないが、酒を口に入れる時は、父親がテレビに目をやった隙にパッと隠れて飲むような、よく分からない僕なりの配慮をしていた。
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話は今月生まれた子どもの話が中心で、写真を見せると僕の赤ちゃんの頃とそっくりだと笑う。
時代の変わり目のように、親から子へバトンタッチされる感覚。
ずっと大人であった親が、感じていた親目線を僕がいつしか引き継いでいるのだ。
それはまるで飲み物もそれを表すように、僕が酒で、親が水と、老いという普遍的なテーマが、その時々にコップへ注がれるモノすら変えていくようだった。
もう2、3杯は酒を楽しむ心持であったが、僕も親へ合わせる様にコップに麦茶を入れて飲んだ。
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父親が、気を使っている僕に気づいたのか
「美味しい赤ワインがあるぞ!」と赤ワインを持ってきた。
「いや、もうお酒はいらないかな」と断ったが、「まぁ一杯ぐらい、残してもええから」とグラスに赤ワインを注ぐ。
すると父親は赤ワインを自分にも注ぐので母親が「大丈夫?」と心配げに止める。
「たまには問題ないわ」とどくどくとグラスに赤ワインが注がれていく。
グラスで乾杯をして父親が赤ワインを飲む。
それがまるで血液を飲むかのように、老いへの必死な反逆にしか見えなった。
「まだ子どもと一緒に酒を飲みかわしたい」という願望が、自然の摂理に逆らうようで止めるに止めれない感覚で見ていた。
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これが僕と父との最後の飲みになるのかもしれない。
小学校から中学校へステージが変わるように、きっと今もそのステージは変わり続けている。
今度は僕の子どもを連れてきて、父の年齢に合った今の楽しみ方を、受け渡したい。
最後までご覧いただきありがとうございます。