9月に転勤する関係で仕事も最後の佳境に入っている。
関連会社への対応や引き継ぎ業務、資料の整理など、僕の全ての時間がいま会社のために注がれていく。
会社にとっては、めちゃくちゃ大事なことで、僕自身も責任のあることだと認識し、必死で食らいついている。
終わる気がしない業務をやり切っているのだが、1日を終えて、今日を振り返ってみると満足感がまるでない。むしろ明日も今日と似た日になるのかと思うと億劫にすらなる。
朝から夜中まで嵐のような時間を過ごしているのに「忙しかった」という薄い感想しか浮かんでこないのだ。会社にとってめちゃくちゃ大事なことをしているのに。
でもそのあまりにも忙しいからこそ、逆に気づけることがある。
それは「”ぬくもり”はそこにあるのか?」という話だ。
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現在は仕事の引き継ぎ関係でホテル生活をしている。
そのホテルの周辺をランニングしていると、すっかり忘れていた風景といくつも出くわすのである。
数年前に行った神社や広場、坂道。
そんな記憶の片隅で消えそうにしているものが、再び出会うことで、ぶわっと頭に広がってくるのだ。
景色から思い出される当時の記憶と触れ合うと、言いようのない”ぬくもり”を感じたりする。さらに転勤により、この景色ともう出会うことがないことに気づくと、また一段とぬくもりを胸の中で感じ取ったりするのだ。
でもその”ぬくもり”はこの町が放っているわけではない。
町はどこか抜け殻のように、再生され続けるテープのように、生活を基盤としない景色が、ただそこにあるだけだ。
僕はこの町にはもう住まないとわかっているから、町もぬくもりを消そうとしている。
以前、読者のまーたるさん (id:ma-taru)が僕の引越しの記事に対して、このようなコメントを残してもらった。
片付けられて生活のぬくもりがなくなった部屋は、たしかに自分がいたのにも関わらず、どこかよそよそしく感じたりっていうのが私にも過去何度もありました。
この感性って今の僕の感覚をまさに言い得ている。
目に見えるものだけを信じれば楽だけど。
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このあるようでないような”ぬくもり”を見つけては消えていく心の起伏は、僕の人生の原動力になっている。
絵を見て感動するように、今は抜け殻をみてもその中に”ぬくもり”を探そうとしている。
でも今日も忙殺される仕事の時間に足を踏み入れていると、どれだけ目に見えて大事なことがあっても、ひとつも心が揺れ動かないのだ。
そうなると、”ぬくもり”をみつけれなくなる。
”ぬくもり”が何かわからなくなる。
社会にとって大事なことは僕にとって果たして大事なことなのか?
目に見えないことだから、いつも何かわからなくなってしまう。
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