当たり前への違和感
YouTubeでは今回中東史を取り上げた。
☟9月1日公開です
https://youtu.be/H0RwgZdhbNk?si=GSYAYrpbikceWMR5
中東史なんて意識すらしたことない僕にとって、「これ(中東史)をみて誰が得するんだ?」と半ば不安なスタート…。
しかし勉強を進めていくと、イスラームなどの世界の宗教が同時多発テロやパレスチナ難民…と現代の問題につながっていく…。
それは遠い国の、はるか昔の出来事なんかではなく、隣のクラスで起きてる至って身近な歴史なのだ。
日本であればオウム真理教やもっと言えば学歴社会や競争社会、資本主義社会へと僕らだって何かしらの「宗教」を信じている。
当たり前にあるものも、本当にこれでいいのか?
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こないだ豊洲を探索していると、強烈な文章に目が止まる。
「動物は可哀想だけど、さすがに魚にまで気を使ってたらキリがねえよ」
と区別するのもいずれおかしなことになるのかな?
LGBTやハラスメントなど、時代の価値観は、常に変化している。
だとしたら今感じてる「普通」が孕んでいる傷つく人、弱い立場に追いやられてる人。
どこまで想像できるのか、自分の経験だけでなく歴史という「他人の経験」からも汲み取っていきたい。
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…と、顔も知らない人や動植物にまで気を配りたいと大それたことを言いながら、結局隣にいる妻をいつもブチギレさせている僕だ。
「そんな見ず知らずの火星人に気を使うなら、私に気をつかいなさいよ!」と聞こえてきそう…。
「だったら僕にも少しは気を遣ったらどうだ!」といつの間にやら、ケチなケンカが始まりかねない。
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そんなこんなで、豊洲の寿司大にいってきた。
渾身の本マグロの一撃。
何をどう気を使えばいいのやら…。
だけどとにかくうまい寿司をくらい、
「せめて感謝だけは忘れないでおこう」と思った次第でした。
最後までご覧いただきありがとうございます33/