服をおしゃれに着こなしたい。
今だってその気持ちはあるのだけど、いつの間にかスニーカーに綿のパンツとTシャツの典型的というか個性のないというか・・・
格好いい服を着るというより、世間様に対して恥ずかしくない服を着ることが目的になっている。
でもそれは昔から服のセンスの安定志向があったわけではない。
自分の服の歴史を考えると、挑戦的な日々やカッコイイと思い身につけようとしてきた自分がいる。
********************************
僕が初めて服に興味をもったのは小学6年生の頃だ。
当時友人から「やっぱり服と言えばPIKOだよな」と聞き「PIKO?」と僕の知らない世界へ誘われた。
PIKOがかっこいいかはわからない。でもそのPIKOの服を着ることが”オシャレ”になれるということを直感的シックスセンスが働いた。
それまでは兄や従妹からのお古が僕のタンスに回ってきて、ミッキーマウスや穴の開いたパーカーを何も考えずに着ていた。
インドで0が発見されるように、僕の中で服というのは体温調節をするだけでなく「カッコよくなるもの」という新たな価値観・認識が生まれたのだ。
*****************************
高校生になると”重ね着”の概念と出会う。
モノを取るときにチラッと下の服が見える。それが着ている上の服と色のバランスを考えてより内面からオシャレをアピールしていくのだ。
それまでの服のメーカーデザイン勝負が”静”とするのであれば、人の動作でオシャレを放つ重ね着は、”動”としての領域に入っていた。
*****************************
腕や首によくわからない小物をつけて、靴擦れを起こしそうなモノを履いて、暑いのに何枚も重ね着をして。次第に僕の思うオシャレは、快適さから程遠いところに存在していた。
そしてそのオシャレさも僕から生まれたものではないことに気づく。
人に勧められたから…あの人が着ていたから…僕の服に対するオシャレさは自らの表現ではなく社会的評価に対して応じられたものだった。
そしてオシャレより快適さを選び、今のスタイルに落ち着くことになる。
*****************************
今も自分の中では正解でない服に身を纏っている感覚だ。
世間様に対して恥ずかしくない服を着る。
まだまだ自らが着たい服を着れていないし、それがどんな服なのか想像もできていない。
冬に近づき、羽織るものが一枚、二枚と増えてくる。
そのすべてを。できれば口を覆うマスクまで、カッコよく感染防止に努めたい。
最後までご覧いただきありがとうございます!