「一生懸命頑張ることは偉い」とか
「サボることは悪いこと」とか
善悪のベクトルって何が起点になっているのか?
「一生懸命」や「サボる」って集団生活の中で、周りに良い影響を与えるのか支障が出るのか?
そんな他者に対するメリットの有無で善悪が生まれている気がする。
普遍的な善悪の基準ではなく、その時の集団心理の中で
善悪が決まるっていう感じだ。
人の浮気や着服なんか本来僕と関係ないことも、
「公共の電波を使って・・・」とか「税金だから・・・」とか言って
僕と関係もなかったことが何とか探って自分ごとと結びつけて
怒ったり批判したりする。
無関係なことも関係してるかのように繋がって
そこで善悪の基準をつなげていく。
「俺の若い頃はパワハラなんて当たり前だ!」
時間も超えて善悪をタイムカプセルに乗せて結びつけてくる。
今やSNSが発展し、誰もが発信でき、それが過去のことだろうと無関係に発表され、
そして本来無関係な人たちもその情報に群がり、善悪リンチにギャーギャー騒ぎ立てる。
僕の中の善悪という感情も3分後のカップラーメンが茹で上がる頃には、
手のひらを返すように変わっていて、
その度に感情の浮き沈みをその場その場の環境・雰囲気に合わせて笑ったり考えたりしてるのだろうか
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昨日ガウディについて少し触れた。
100年以上も前の作品サクラダファミリアを、いまだに人々は作り上げている
そしてそれを見に行こうと、国籍も年代も違う世界中の人々がバルセロナに訪れる
「時代?国境?ウルセェ!」ってな感じで
万博公園の跡地でドカンとつったっている。
うつり変わることも変わらずいることも善悪なんて存在しないのかもしれないけど
もし自分に正直でいれるなら、うるさすぎる街のノイズに価値観を委ねることなく
自分の中で好きでいること。
クリスマスや、ビートルズや、空港や、クロノ・トリガーや・・・
変わらんものを自信を持って「善」として歩んでいきたい