当たり前になる"前"の世界

 

 

子どもが"触ることを覚えよう"としている。

 

今までは、たまたま子どもの手がボクの顔に"当たって"いたけど、そうではなく"触れて"くるのである。

 

意思を持って、これは''触れる"という事を知り始めている。少しずつこの世界の法則のような物を見つけ出してるみたいだ。

 

 

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子どもは何まで認識しているのか?その境界線をよく考えたりする。

 

目があったので笑かそうと、いないいないばぁをしても、ぼーっとこっちを見るだけ。何も反応をしない。

 

ボクの行為が面白くないのは大前提だが、それ以上に"面白い事をボクがしようとしている"ことも認識していないみたいだ。というか見えてる?と不安にすらなる。

 

この認識されていないというのは、存在しないのと同じだ。ボクのまじめな顔も、今してる変顔も、子どもの中ではまったく差がない。境界線のない地続きの顔なのである。

 

 

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子どもにとってこの部屋も、線引きができていない。壁も天井も床も、少しのことで大きく変容してしまう。

 

夜。

電気の照明を暗くすると、大きな声で泣き出してしまう。光がなくなることで、子どもは闇と出会うからだ。その瞬間、一気にこの部屋が理解のし得ない空間になっているのだと思う。

 

逆にいえば、ボクはこの電気の消えた部屋の何を理解してるのだろう?

 

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電気のスイッチを切った部屋という認識で、明るかった部屋と、この暗くなった部屋は同じ部屋の存在である事を勝手に信じている。

 

それを「当たり前のことだ」と思うことで考えることを放棄しているが、果たしてそうなのだろうか?今まではそうであったという事実だけで、それがこの世界の真理ではない気がする。

 

もっと多くの見方があり、捉え方ができる。

当たり前だと線引きしていくとどんどん世界は狭くなってしまうようだ。

 

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考えていけばいくほど、常識や認識の境界線は動いていく。そこに僕がまだ気づきもしなかった考えやアイディアが眠っている気がするのだ。

 

子どもは今“触れる"という新しい認識で、この世界を知ろうとしている、掴もうとしている。

 

そんな子どもが今見ている当たり前になる"前"の世界。忘れてしまった目線を子どもを通して考えるのは面白い。

 

 

 

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