子どもが赤い豆電球にした電気をずっとみている。
それをただ見ているだけなのに急に息が荒くなったり、落ち着いたり。
大人になりそんな子どもをみると、
「眠たいのかな?」
「お腹が空いた?」
と子どもの体調を考えてしまう。
でもそうではない。
もうすっかり忘れてしまっていたが、僕が子どもの頃もこんな瞬間があった。電気や壁、それを見ているだけなのに、子どもの頭の中では色んな世界が広がっているんだ。
大人になってもそんな経験はある。
例えば同じ漢字をじっと眺めていたら「意味がわからなくなった」「文字がバラバラになった」。
たとえば議会の…
「議」
じーーーーっと、この漢字を舐めるように見ていくと
「言」「義」
「言」→「一」「三」「口」
「義」→「羊」「我」
……
…
議、議、議、議……
全体としてひとつの漢字として認識できているのが、じっと眺めているうちにバラバラのパーツに見えてきてしまい、結果的に意味がわからなくなってしまう。
知ってるはずなのに、違うように見えて。
それをなんとか過去の経験から、想像力でまたつなぎ合わせていく。
これと同じように、オレンジの豆電球や壁も、「知ってる」「わかってる」と思っているだけで、じっーーーとみていると、その電気や壁もその存在自体が曖昧になり不思議な気持ちになってくる。
電気が電気ではなく見えてくる。
そこに創造力がつながってくると、どんどん新しい世界が生まれてくるのだ。
オレンジ…
夕焼け…
火星…
豆電球を通して六畳一間の部屋が変容する。
そしてその世界に入り込んでしまうほど、子どもは飛行機よりもロケットよりも速いスピードで、遠くの世界へ行ってしまうのだ。
僕の腕の中で寝つかない子どもは今日もじっと赤い電球を見ている。
まだ何者でもない新生児はこの赤い豆電球を通して、どんな世界を見ているんだろう?
これは「明るさが3段階に切り替えができるPanasonicの電気だ」。
知ってる知識で止めてしまっては想像はできない。
子どもはこの電気を通して宇宙の果てまで繋がるどこでもドアのような創造力を頭に持ち合わせているんだ。
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