自分の子供と暮らして1番自分がまだ理解できていないことがある。
それは親としての自覚だ。
自分の子どもは可愛い。
でも誤解を恐れずに言うと、「僕の子ども」という実感がまだあまり湧いてこない。
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「目元が似ているね。」
「まつ毛はお母さん似だね。」
そうやって見た目から僕や奥さんの共通点を子どもから探そうとするのだが、それが似てるから親として繋がりを確かめれるわけではない。
血が繋がってるから親子。
法律的にも歴史的にも言語的にも親として当てはまるのだが、僕が今、この子を前にして思うのは、「親としてのつながりは血縁だけで保証されるものではない」ということだ。
もっと根幹的なところでのつながり。
仮に血が繋がっていなくても、親となり得る力のようなもの。
「これが僕の子ども。」
その事実が、事実として認識しながらも心の奥底では、まだ何かよくわからない範疇の中で今は成り立っている。
可愛い目、力強い瞳。
どこの子よりも、愛おしいと思う。でもそこに「親としての何か?」をまだよく分かっていない。まだ感じ取れていないのだ。
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子どもが毎日何かを訴えている。
僕の腕の中で顔を歪ませて、それが親である僕には何を訴えているのか理解できていない。
でも懸命に本能的に、子どもは生まれてきたこの命で生きようとしている。
母体より遥かに不快感の世界に、母乳を飲みまっすぐした瞳で明日も明後日も生きていこうとしている。
この子は1人でこの世界にやってきて、名前も知らない場所にいる。
まだ見る夢も不安いっぱいで、目が覚めると怖くて泣いてしまうように思うのだ。
それでも抱きしめると、とっても暖かく、そのまますっと泣きやみ、また目をつぶり眠っていく。
まだまだたくさんこの子は愛を欲していて、僕もたくさんこの子へ愛を作っていく。
その行動の積み重ねが、その経験の連続が、子を守る、強いては僕の「親」としての自覚が醸成されるきっかけなのかもしれない。
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