なにもない都会の誘惑

転勤をしてからの都会からの帰宅。

ご飯、音楽、雑貨…

都会の夜は誘惑がすごい。

 

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みんな忙しそうな顔をしている朝から一変、夜はコロナ禍なんのその。

ネクタイとマスクがヨレヨレになったサラリーマンがへべれけになって都会の誘惑に流されている。

 

「そりゃあ感染者減らんわな」と家に直行しながらも、コロナがなかったら一瞬で僕もこの都会に抱かれて、物にならない欲望の夢を、見ては覚める生活をしていたに違いない。

 

 

 

 

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転勤する前の東海地方の帰りなんて町からお誘いされることはまずなかった。

店も草も道路も8時を過ぎれば眠りについているのだ。

 

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「この街(東海地方)は田舎だから何にもすることがない。」とよく転勤してきた上司や同僚が嘆いていたが、今なら気持ちが少しわかる。

 

この人たちは会社帰り、欲望の発散を、自分ではなく都会が考え提案してくれていたのだ。

 

田舎の場合はそうもいかない。

夜を楽しみたいのであれば、自ら足を動かして探さないといけないし作らないといけない。

そういった行動力・創造力がなければ、転勤者にとっては「この街は何もない」と悲観的に田舎を眺めることになる。

 

 

 

 

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そう考えるとむしろ、田舎と違い都会には何かあるのか?と逆に考えもしてしまう。

確かに飲食店や娯楽のサービスも充実しており、疲れた中でも、「ちょっと一杯」と今日1日を談笑する場にはうってつけかもしれない。

 

でもそれは店のサービスであり、僕自身が何か生み出したわけでもない。

それを繰り返せば、結局コピー・アンド・ペーストの生活だ。

都会であろうと「何もない」と悲観的に考える日も近いのかもしれない。

 

そしてこの場合は、町のせいにはできない。

「自分自身何もない」という、悩める哲学者になってしまうのだ。

 

 

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 結局どれだけ都会が僕を色づけてくれても、僕自身がどのように都会を色づけるかで、その事の意味は大きく変わるように感じる。

 

大げさに言えばニューヨークで働いていることがステータスになるような生き方ではなく、ニューヨークでないと自分のしたいことが達成できないような世界との付き合い方が大事なんだ。

 

とは言いながら、ひっそりと都会の誘惑を横目で見ている。

油断したら一瞬で僕も都会の虜になってしまう。

 

 

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