【日常:22】ゆとり教育の必要性について

自分が生まれ育った町を朝から練り歩いて見た。実家に帰りやることもなく、とりあえず傘をさしながら幼少期を物思いにふけるドグマです。

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時代が唸りをあげて変化する中、今後僕らは何を準備していけばいいか。のんきに散歩しながら考えてみた。

 

 

 

 

ゆとり教育の必要性について

 

ゆとり教育とはなんだったのか?

 

ゆとり教育がいつから始まったかは様々なため、Wikipediaでは2002年度から、これまでの詰め込み教育の反省として本格導入されたとのことだ。

 

2002年は僕が中学生の頃であり、どんぴしゃ世代である。思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針を目的としてるとのこと。Wikipediaで調べて初めて知りました。

 

ゆとり教育は失敗とよく聞く。でもここで間違ってはいけないのはゆとり教育の施策運営がうまくいかなかったということで、ゆとり自体は大切な概念だ。

 

ゆとり教育のゴール

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今日は朝から教会に顔を出していた。決して僕はキリスト教という訳ではない。この話は明日することにして、教会の礼拝では、みんな自発的に願いを込めて祈っている。

 

ぼくは思う。この自発的な行動、そこにこれからの人生の本質的な意味を感じる。

何かを自発的に行動すること、追われてやってるものでなく、慣習的に反射でやってるわけでなく、自発的に行為をしているもの、これがゆとり教育の最大の目的なのかもしれない。

これがゴールであるなら日本はまだまだ成長するはずだ。

 

自らの心の奥で気づいた「したい」という想い。それに応えるように行動する。このシンプルに本質的な行為こそ、ゆとりある時間だからこそ生まれるものだと思っている。

 

積み重ねる一手間

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今後生き残っていくには、自発的に行動し積み重ねる『一手間』が絶対に必要だ。その人のための一手間。これは、お金をかけるとか、物をあげるとかではない。その人のために時間をかけるということだ。

 

気づくかどうかもわからない一手間、そこを僕たちは実は見ているのだ。

 

薬局でマスクを購入するため、客が長蛇の列で並んでいる。そこにストーブを置いている一手間。

お店を探すときにWEB上の表示で、ビルの何階にあるか表示させる一手間。

上司に呼ばれたときに、ペンと手帳を持っていく一手間。

 

この手間の連続が圧倒的な差を生むことになる。

 

ゆとりがなければ心もない

 

Twitterでは月収100万突破など、金銭をゴールにした謳い文句が、大量に出回っている。

この謳い文句を機に本職を辞めて飛び込む人がいるかもしれないから念のためぼくの考えを参考までに伝えると、絶対にうまくいくはずがない。

 

そのTwitterがデマであるとかそんな安い話ではなく(まぁ十中八九嘘だが)仕事を辞めるとお金は入らない、ここからは追っかけられてのパフォーマンスを繰り広げることになる。

 

生活をするため必ずお金に直結する動きばかりをすることになる。こうなると外にストーブを並べるゆとりなど一気になくなる。もう誰とも変わらない均一的なサービスで目糞鼻くその背のくらべで勝負することになるのだ。

 

生きるために金を稼ぐ。そのためお客様の満足より目の前の金のために行動することになる。そこに最高のサービスが生まれるわけがないのだ。

 

ゆとりがなければ心もないのだ。

 

大阪の二日間を終えて

 

実家である大阪からまた赴任先の地方へ戻る電車の中でこのブログ記事を書いている。教会の礼拝の帰り雨の公園のベンチに座り、色鉛筆をひろげ絵を描きたくなった。

 

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雨の音がポツポツとベンチを囲む屋根にあたる。ゆとりある空間が生まれる。

 

色鉛筆で色を塗っていると、どんどん腹を空かした鳩がよってくる。時間に追われることなく、ゆとりある時間を確保しても、鳩に追っかけられて、急いでスケッチを片付けるハメになることもあるようだ。