【日常:18】拡散は4段階の電流を走らせて生まれる

水彩画動画を見て、その技術をどんどんいただいている。どんな絵を描きたいかまだ決まっていませんが、まずは先人たちの技法をしっかりと学んでいきます

 

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昨日は、卒業企画についてまとめた記事を掲載しました。

 

asasyukan.hateblo.jp

 

 

そこでこれは忘れてはいけないと感じた一つに告知・周知にあたる「広報活動」において今日は記載したい。

 

 

 

 

 

 

拡散は4段階の電流を走らせて生まれる

 

 

そもそもTwitterを始めた理由はまさにこの広報活動に活かしたいと思ったからだ。しかし「○月△日に□□企画やるよー!」と周知をしても広がらない。

それを真剣になぜかと考えてみると、4段階構造に分かれているように思う。

 

1つ目は関心。

2つ目は利他的。

3つ目は役割。

4つ目は考えの服。

この4つにより告知による拡散というのは起こり得るのだと思う。

 

 

 

関心と無関心

 

一段階目は関心は「広報のスイッチ」であり、関心がなければ、そもそも告知はそこで終了だ。このスイッチを動かす電流は「発信者」または「企画の魅力」に依存している。

 

Twitter上で「○月△日に□□企画やるよー!」といっても、そもそもボクのことを知らなければ、どうでもいいわけで、無関心な人物が行動を起こしても企画に魅力がなければ無関心のまま終わってしまう。

 

しかしその発信者を知っていたり、その企画に魅力があれば、関心のスイッチが入り、2段階目への利他的へのゾーンへといく。

 

利他的と利己的

 

ファンの多いアーティストや著名人でも周知ばかりされては拡散力は広がらない。それはその内容が、利己的で終わってしまうからだ。あくまで告知により利益を取るのは受け手でなければ3段階目にはいかない。

 

例えば炎上などは、いい例だ。コンビニの冷蔵庫に入り写真を撮る。関心は雷のように電流を走らせ「この不謹慎な者に天罰を与えたい」という欲望が受け手に繋がり、一気に3段階目まで走っていく。言い換えれば炎上は、しっかりと受け手に「ストレスを発散させる利益」を与えているのだ。

 

 

役割(受け手が告知をする動機づけ)

受け手の役割

 

昨日Twitterでは、愛犬の遺骨を落としてしまい捜索支援を求めるツイートが、爆発的に拡散した。これは拡散を受けた人にも「遺骨を見つけてあげたい!」という大きな役割があり、再告知することで見つかる可能性を上げる効果をもたらす。自分が知らせることで誰かがその遺骨見つけて支援に役立つかもしれない。

 

発信者がツイートし、それを受けて、受け手が再告知をし、その再告知を見た人(ここでは2次受け手者という)にも役割がそのまま活かされバトンタッチされていく。拡散の上で、この受け手の役割はとても重要だ。 

 

先ほどのファンの多いアーティスト等が周知をした際でも一時的には拡散は生まれる。それは例え周知ばかりの利己的なものであったとしても、「この人を応援したい!」という関心が受け手の利益に繋がり、受け手が告知することで「応援したい」役割を果たすことになるからだ。

 

しかしその拡散された告知を受け取った2次受け手者では止まってしまうことになる。そもそも拡散する理由がないため、2次受け手者としての役割はもうなくなってしまってるのだ。

 

参加型

受け手の役割として参加していることで、役割を果たすこともある。

 

例えば元ZOZOの前澤さんが100万円を1000人にプレゼントする企画をだした。

これは400万人近くに拡散され、告知はお金で買えることを証明した。

 

お金という関心は、自分がもらえるかもしれないという受け手の利益に繋がり、参加しないとその権利はないという役割を果たし、拡散への道を一気につなげているのだ。

 

 考えの服

 そして私が今回このテーマでもっとも言いたいことは、この4段階目だ。実はこの4段階目がなくても告知の拡散という意味では十分に達成できる。

しかしこの4段階目の「考えの服」こそ、人間の本質的な部分であり、ここを満たしてあげることが発信者としても拡散者としても必要な知恵である。

 

僕はZOZOの前澤さんのツイートを参加したかというと参加をしていない。関心がなかったかというとそんなわけない。お金は大切だし必要なものだ。

でもそれを拡散することで僕はどう見られるのだろうという考えが働く。

コンビニの冷蔵庫に入ったいたずらっ子を拡散することで果たして僕は人にこれを知ってもらいどうしたいのだろうか。

 

昨今のテレビでも見られる視聴率稼ぎのために、交通事故の映像や浮気、学歴、、、

関心を引くためにメディアとしてのリテラシーを衰退させる方向性はいかがなものなのか。これは発信者だけの責任ではなく、受け手である我々も考えないといけない。

 

僕は社会に対して見せる行為は「考え・思考を装飾する服」だと思っている。拡散する行為も例外でなく、自分の「考え・思考を装飾する服」を見せることになる。美しい考えはより美しく、下品な思想はより下品に我々の目に映る。

 

拡散を狙う人はこの部分までぜひ考えて作ってほしい。

お金目的に拡散された情報に飛びつく人を見せられて、僕らは何を感じ取ったらいいのか。世の中を失望させないでほしい。

 

終わりに

 

今トイレットペーパーが品薄とのことだ。風吹けば桶屋が儲かるみたいなことがコロナウイルスから発信されている。拡散の電流をどこでシャットアウトしたらいいのか。

 

それは僕らの知恵でしかそのスイッチを消すことはできない。