桜を見る会と自分を見ない僕

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立憲、国民民主、共産、社民、れいわ新選組の野党5党は25日、「桜を見る会」の追及チームを格上げした「追及本部」の初会合を開いた。

 本部長に就いた立憲の福山哲郎幹事長は「次の通常国会に向けて、追及の手を緩めない」とあいさつ。本部長代行の共産党の小池氏も「『桜を見る会』を転じて『桜が散る会』にしていくために力を合わせよう」と述べ、安倍政権打倒を目指そうと呼びかけた。【浜中慎哉、東久保逸夫】

 

11月25日 毎日新聞

 

 

 

 

 

 

あまりに個人的な見解を述べるため、気分を害する人がいたら申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんっとーに税金の無駄としか思えない。

 

与党がなぜこれだけ叩かれても支持率がそれほど下がらないのか。野党のやってること、見えてくること(←これがすごく大切)が国民の多くの人が求めてることではないからではないか。

 

この国がもし株式会社であれば、野党の今やってる桜の散る会にしていくための働きかけをする社員がいたら、株主として強く非難するだろう。

 

そうではない。この国のためにどんなことをしたいのか?与党とやりたいことが同じであれば力を合わしてほしい。

 

与党が完璧かといえば全くそうではない。

森友にせよ桜にせよ、国民の税金を私物化しているのはほぼほぼそうだろう。だからといって他にシフトへ舵がきれない。あまりに野党がたよりないからだ。

 

野党として批判するのは当然だ。ちゃんとチェックを働かすことは抑止力にもなる。ただいつまでチェックをするのか。あなた達他にやることはないのか?と問いたくなる。

 

一番求めているのは追求ではない。

成長する日本の道標を示してもらうことだ。

それをやっているかもしれないが、見えてこないのだ。

 

そこで思うのは自分もそうなのだ。

人を批判し、世間を批判し、世界を批判していた。だけどそうではない。そんなために生まれてきたのではない。この生をうけたのは、付加価値をこの世の中に残すためだ。

 

今回の野党のように、生きる方向性が自分ではなく相手に向いていたのである。では自分に向けてこの世の中に対して何を残していけばいいのだろう。

 

 

 

なるほど、これは難しい。

 

 

 

このまま考え込み動かないでいるから、春になり、窓の外では誰かが桜を見る笑い声が聞こえてくる。

その笑い声が煩わしいので、桜の木を揺らしては散らすのだ。